年月日不明
末永静行 テープ№3Ⅹ-001-A-1
母親が赤ん坊にお乳を与えますのにむやみに、やたらにお乳を与える事は致しません、本当にその、自分自身の乳の張り具合、または時間を図っておって、もうぼちぼちお腹がすいとろうという頃に親が見計らってお乳を与えるように、場合によってはお腹がすいたというては、まあ、火のつくように泣く、けれども、そう言う時に親がちょっと都合があって手が放せない事がある、はーひもじかばってんちょっと待ってちょうだいとかいうて自分の用、自分用を都合があってのこと、とても撃ち殺そうと思うてじゃ決してないという事、まるきり撃ち殺さればするように泣く、火のつくように待てん、決して撃ち殺されるため、撃ち殺す、憎たらしいというて乳を飲ません母親はおらない。例えばそう言う事があったに致しましても、それはそれなり、親は親に都合のあっての事なのです。
私共がおかげを受けるという事でもそうです、どうぞ、さぁー下さいというてもね、神様には神様、親神様には親神様として御都合がおありになるのじゃ、ね、ですから、私共が成り行きを大事にさせてもらうということは、もう成り行きの中に親心を悟らせてもらう、なるほど、ひもじい思いをさせなさるようなことはないなと、撃ち殺しなさるような事はないなと、いかにもこれは私に対する気概のようにある、もう本当に神様は私を憎んでござるじゃろうかと思うようなこともすらあるんだけれども、そういう時には神様は神様としての御都合のある時なのだと、そこを神様の御都合に違いはないという事を申しますでしょうが、それなんです。だからここの辺をですね、もう本当に揺ったりした心で、揺ったりした心でそう言うような事が思い込めれたらおかげですね、一事が万事に。
そこで信心とはですね、私共が例えばひもじいとか、あれが欲しいこれが欲しいというような時に縋る、ね、例えば、泣くように言うて頼む、神様、あーひもじかったろう、ひもじかったろうと言わんばかりにしてからおかげを下さる、ね、だから、そう言う時だけがおかげではなくて、いつもニコニコしてお腹の調子かげんがちょうど良い時の時間の方がどれだけ長いか分からないと言う事、神様の懐の中に御守護の中に親の試合の中に赤ん坊が成長していくように、そう言う時間の方がどれだけ多いか分からないという事、信心とはね、そう言うような中に有り難さ、そう言う中にお恵一杯の中に生かされて生きておるのぞという事を教えるのが信心だと私は思う。
だから、むしろそこんところの有り難さが分かればです、ね、火のつくように泣きもしなければ、やーや-言うて、言うなら、願う事すらいらんという事、いわば、お礼心、感謝一杯の心が日にちあればです、本当を言うたら願う事はいらんという事、親神様と私共の、いわば、その間柄と言うものはそう言うもの、ね。
赤ん坊でもお腹が大きい時にすやすや眠ってたり、ニコニコ笑ったり、一人でほっといてもごそごそなんかして遊んでおるでしょうが、私共の上にもです、実を言うたらそう言う時のほうが多いという事、神様どうぞお願いしますと言うままならない事はごく実は少なく手です、実を言うたらもう満ち足りたようなおかげを実を言うたら頂いておるという事、何をもって不足に思うかと言うようにおかげを受けておるという事、そのことを私共は心の底から分からせてもろうて、おかげを頂いて有り難いなあとニコニコしとけばそれでよろしいのであって、お腹がすいてきたなぁと言う時にはもう親のほうがちゃんと時間はかんくっちゃる、ね、そこを私共が人情人間心を付こうて頂けるはずのおかげが互い違いになってです、親は与えようと思うのに、その、ここにおったと思うたら向こうに行ったりと言うようなことになってはです、ね、おかげが互い違いになると言うのはそう言うようなこと。
私達はね、もう本当に平穏無事であるという時ぐらいほど実は有り難い事はないという事、赤ん坊がお乳を飲ませて頂いてから、ね、お乳を与えてもりゃぴしゃっと泣き止む、そん時だけが満足そうな顔をして、そん時だけはおかげのような顔をして、けれども、段々また時間がたってくると、また火のつくように言うて親に縋る、ここでは同じ事を繰り返す事ばかりでしょうが、ね、それよりも私共の何一つ思うてみりゃ、あれもおかげこれもおかげと言う時にです、心の底から有り難うございますがいえて、いつもニコニコしておらせて頂けば、ね、それが和らぎ喜ぶ心となり、それがおかげを頂く受け物になる。そこのところの道理をです、本当に思い込ませて頂いたら、もうお礼を申し上げねばならんことが周囲に一杯あることに第一気がつきましょう、ね、お礼を申し上げよったら、もう願うだんの事はもう本当にわずかになってくるでしょう、実をいうたらなくなってくる、ね。
と、神様には神様の御都合がある、親に親の都合があっての事なのですから、都合の、いわば、済むまで成り行きを大事に待たせて頂く、さぁーいよいよおかげをやろうという段取りになる時に私共がそのおかげの受けられないところの心の状態になっておると、いわば、おかげが互い違いになるような事にすらなってくるのですから、ね、以下に、私共が神恩報謝の生活という事が大事なかという事が分かるでしょうが、ね。私共は神恩報謝の生活をですね、心の底から分からせて頂けれる道を教えてくださったのが教祖の神様だと私は思う。ね。
だから、おかげを頂くコツといったようなものよりもです、実をいうたらそういうような大事なところに開眼させてもろうて、気付かせて頂いて、本当にやーやーお腹がすいたというてはお乳を求める赤ん坊のような事がいつだまで続いては駄目だという事、求めんで済む、せがまんで済む、実をいうたらどこを見てもこれを見ても一杯過ぎるぐらいにおかげを受けておる事を私は本気でお礼を申し上げさせてもらえれる生活、一日の内でもお腹がすいたと言うて泣く時間よりニコニコすやすや眠ったり、ニコニコしておる時間の方がどれだけ多いか分からないという事、その、どれだけ多いか分からない時間の方をです、有り難いなあ、有り難い事だなというて過ごさせて頂く生活を私は神恩報謝の生活だと思う。
神恩報謝の生活が出来るところにです、神様を待つ、ね、願わんでも頼まんでもお恵みをかげ給うところの働きと言う物に、いわゆる、タイミングが良いとこう申しますでしょう、おかげを受けて、もう、何からかにまで、まあ、万事万端に御都合お繰り合わせを頂いてとこう申しますでしょう、そういうおかげの頂けれる日にちが約束されるのです、ところが私共が人情をつこうたり、おかげの受けられない心をつこうて、いわば、おかげのうけられるはずのおかげまで互い違いにしておるような事はないだろうかと、もういっぺん深く一つお互い考えてみなきゃいけないと思うんですね。おかげを頂かにゃいけません。